バスケ専門トレーナーりょーすけ自己紹介

こんにちは。

バスケ専門トレーナーのりょーすけです。

 

現在私はバスケ専門トレーナーとして、選手の身体パフォーマンスを高める活動をしております。

 

このページでは、僕のバスケ人生とトレーナーになるまでの経緯、活動理念など語っております。

 

長い内容となっておりますが、ぜひ最後まで読んでいただけると幸いです。

 

 

【バスケを知ったきっかけ】5歳の時にスラムダンクを見てバスケに目覚める

まだ5歳ぐらいだった頃、よく『アニマックス』と言う番組を見ていて、そこでたまたまスラムダンクが放送されていた。

 

なんとなくスラムダンクを見ていたら、「バスケって、なんか楽しそう」と思った。

そして気づくと、いつの間にかバスケの虜になっていた。

 

保育園の校庭で遊ぶ時間は、先生にガムテープで作ってもらった簡易的なバスケゴールで、ひたすらバスケをしていた。

 

家の中でも子供用のゴールで、スラムダンクのゴリのダンクを真似してみたりと、とにかく夢中だった。

 

【ミニバス生活】

とにかくバスケがやりたかったので、小学1年生の時に地元のミニバスチームに入団。

 

バスケは楽しかったのだが、低学年の時期は試合に出れず「つまらない」と感じたり、練習がシンプルに辛かった。

 

ただ、小学5年生になると、だんだんと試合に出れるチャンスも増えてきて、バスケが楽しく感じられるようになっていた。

 

【小学生にして大きな挫折】

小学5年生になると、だんだんと試合に出れるチャンスも増えてきて、バスケが楽しく感じられるようになっていた。

 

しかし、突然悲劇が起こる。

 

忘れもしない、2012年2月。

友達と鬼ごっごで遊んでいたところ、不注意により右膝がコンクリートに激突。

 

激しい痛みに襲われ病院に行ったところ、「全治8ヶ月・2回の手術が必要な大怪我」を負ってしまった。

 

高学年で、いよいよ試合に出れるという時期の大怪我に、恐怖と悔しさで涙が止まらなかった。

 

【人として圧倒的に成長】

(膝に入っていたワイヤー)

その後は人生初の手術を経験し、復帰を目指してリハビリを懸命に取り組んだ。

 

リハビリは、痛みや本当によくなるのだろうかという不安があり、つらくて泣きながら励んだことを覚えている。

 

この時期、クラスの友達がよく家にお見舞いに来てくれたり、バスケのチームメイトや周りの大人が心配の声をかけてくれたことには本当に感謝している。

 

そして何より、常にサポートしてくれた親には本当に救われた。

 

そこから学んだのは、

①多くの人に支えられているからこそ、自分は頑張れているということ。

②普通に歩ける、友達と走り回ったりバスケができるなど、当たり前だと思っていた日常が、実は本当の幸せであるのに気付かされたこと。

 

 

約8ヶ月間の地道なリハビリを終え、ついにミニバスに復帰することができた。

 

復帰後初の試合に出場し、得点したときは、チームメイトがベンチでとてつもなく盛り上がってくれたのは忘れられない。

 

2回の手術とリハビリを乗り越え、日常生活に戻ることができたのはすごく嬉しかったが、ただ1つ悔しい出来事があった。

 

それは、ミニバス最後の大会に出場できなかったことだ。

 

怪我で戦線離脱したとはいえ、6年間バスケをやってきたのに、その集大成をベンチで見守ることしかできなかったのがとてつもなく悔しかった。

 

メンバーは負けたことによる悔しさで涙していたが、僕は試合に出れなかった無力感でいっぱいだった。

 

そして僕は確信する。

 

「中学では誰よりも上手くなって、最高のプレイヤーになる」

 

ミニバスの同期メンバーは、それぞれ1〜3人ずつぐらいで中学校がバラバラだったので、敵として対戦することになる。

 

中学では、バスケを全力でやろうと強く心に誓った。

 

【バスケに全てを捧げた中学時代】

中学に入学する頃には、膝もほぼ違和感なく完治していた。

 

そこからは、ベストプレイヤーになるためにバスケ漬けの生活を送った。

  • マイケルジョーダンの動画を毎日見まくる
  • 体幹トレーニングを毎日やる
  • 部活後、自分の家の前で仲の良いメンバーとハンドリング練習
  • 時間がある時は、朝5時に起きて公園でシューティング など

 

サボってしまう時や膝の怪我の再発、指を2回骨折するなどハプニングも起きたが、

「ベストプレイヤーになって、チームを勝たせたい。このメンバーで勝ちたい。」

という信念は揺らがなかった。

 

高い意識でバスケに取り組んでいたこともあり、学年が上がると部長に選ばれた。

 

部長として辛い時期や悩む時期も多かったが、メンバーは優しく、僕はチームメイトが好きだったので乗り越えられた。

 

成長したことを先生に認められ、全校生徒の前で代表スピーチを任されるという経験もできた。

 

中学最後の大会では、チームとして目標にしていた「県大会出場」を目指し気持ちを高めた。

 

大会では接戦を制したり、これまで一度も勝てなかったチームを撃破するなど、快進撃を続けた。

 

結果、中学最後の大会で「市ベスト4」まで上り詰めることができた。

 

しかし、県大会をかけた戦いでは見事に負けてしまい、惜しくも目標達成とはならなかった。

 

世間的に見れば大した成績ではないかもしれないが、いつも地区予選1・2回戦で敗退するチームとしては奇跡だった。

 

こうして中学校のバスケ生活に幕を閉じたが、最後の大会をチーム最高成績で引退できたのは、この上ない喜びだった。

 

【失望の高校時代】

当然高校生活でもバスケを続けると決意。

 

またここからバスケを頑張りエースとして活躍するんだという気持ちで期待も膨らんでいた。

 

ただ、入学して高校生活を送ると、僕含めチームメイトも顧問の先生と衝突することが多かった。

 

結果、高校1年の後半には先輩が退部、残された部員は6人といった危機的状況になってしまった。

 

絶望の状況となり、チームメイトがふと口にした「こんなバスケ生活を送るはずじゃなかった」という言葉に悲しくも共感を覚えた。

 

苦しくもなんとか1年生を終え、2年生になると、後輩の加入・顧問の入れ替わりなど環境が一変した。

 

「ここからようやくまともな部活がスタートする!」と、同級生とも意気込んでいた。

 

しかし、現実はそう上手くいくものではなかった。

 

後輩とトラブルが続き、チームの歯車がなかなか噛み合わなかったのだ。

 

何度か話し合いなども重ね、良い雰囲気で練習や試合に臨むこともあったが、基本的には上下関係が最悪だった。

 

さらに、僕自身は膝のスポーツ障害である「ジャンパー膝」に苦しめられ、長期の離脱を余儀なくされた

 

【怪我でどん底・人生の起点となる出来事】

怪我を治すため、病院に通いリハビリを行っていたが、一向に膝は完治しなかった。

 

リハビリ期間は練習に参加できないため、ちょうど校内合宿のタイミングで、僕は初めて本格的にウエイトトレーニングを顧問の先生から教わった。

 

そこで僕は衝撃を受ける。

 

3日間かけて初めて本格的にウエイトトレーニングを行った結果、僕のガリガリだった身体が目に見えて大きくなった。

 

一時的ではあったが、身体が変わることでチームメイトも驚いていたし、この身体ならどんなプレーも通用するんじゃないかと自分にも自信が湧いてくるのがわかった。

 

「身体が変われば圧倒的な選手になることができるぞ」

 

この出来事が、後に僕をバスケトレーナーへと導くきっかけの1つになるとは思ってもいなかった。

 

【身体パフォーマンスが上がらず後悔】

一方のチームはというと、雰囲気は良くないし、このまま復帰できないならチームにいても意味がないと思い始め、部活を辞めようと本気で考えたこともあった。

 

「部活をやっているのに成長が見られない」

「アルバイトしてた方がマシだったんじゃない?」

と、親に言われることもあったぐらいだ。

 

そもそも高校受験を真剣にやって、別の高校に行けばよかったんだと思うこともあった。

しかし、今更そんなことは言ってられないし、選んだ道を正解にしよう」と気持ちを切り替えた。

 

整骨院に通いつつだましだましバスケに復帰できたが、身近に専門家もいなかったため、万全な状態でプレーはできず、心と身体にどこか心残りがあるままバスケを続けた。

 

膝の不調を抱えつつ、引退の時期を迎えた。

 

高校最後の大会は、1回戦敗退と残念な結果に終わり、怪我のことなど含め個人的には納得いかない終わり方となった。

 

【将来はスポーツトレーナーになると決意】

僕はバスケが大好きだったので、これまで怪我によって思うようなパフォーマンスが発揮なかったのはとても悔しかった。

 

「ウエイトトレーニングで初めて筋肉がついたときはとても喜んだが、筋肉をつけるだけではバスケパフォーマンスは上がらなかった。」

「じゃあ、どうすれば身体パフォーマンスが上げれたのだろうか?」

 

気がつくと、こんなことばかり考えていた。

 

そして、ここで僕は将来を決定づける決断をする。

 

「将来は多くの人の健康や身体のパフォーマンスを高められるスポーツトレーナーになって、人々へ価値を提供できる人間になろう」

 

僕のこれまでの想いをぶつけた2000文字近くのPR文を大学に提出し、僕はトレーナーカリキュラムが充実しているスポーツ科学が学べる大学へ推薦入学した。

 

【勉強・自己投資が中心の大学生活】

元々勉強嫌いの僕だったが、大学に入ってからは勉強が好きになり自分を高める活動をメインで行った。

  • 4年間スポーツ科学の勉強
  • ほぼ毎日の読書
  • ジムでのトレーニング
  • バスケ系ブログでお金を稼ぐ経験
  • 格上の人に会い自分を向上
  • コーチングを受けてメンタルを向上
  • トレーナーの師匠となる存在から理論やノウハウを習得
  • YouTubeチャンネルを開始する

など、自分の人間としての能力や教養・トレーナーとしてのレベルアップに時間を使うことが多かった。

 

【バスケ専門トレーナーになると決意】

そして、将来はジムトレーナーとして活動しようと準備をしていたが、過去のバスケ人生の後悔を振り返った時に、

 

「これからバスケを頑張る選手には僕のように怪我や身体の弱さで苦しんでほしくないし、やっぱり自分はバスケに情熱がある。バスケ選手を専門的にサポートできる活動をして、一人でも多くの選手が理想のプレーを実現できるよう環境を作ろう。」

 

このような過去・経験・学びから、現在僕はバスケ専門トレーナーとして熱い想いを持ちながら活動をしています。

 

【僕の持つ価値観】

僕の発信やサポートを通して皆さんには「充実した人生をつくって欲しい」と思っています。

 

学生時代バスケに全力で打ち込み、大学で筋トレやブログ・コーチングに出会う中で僕は気づきました。

「自分が好きなことや達成したいことに打ち込む中で、何か目標を掲げ、そこに向けて日々楽しく過ごすことが、自分の中に充実感をつくる。」

 

バスケパフォーマンスを向上させるトレーニングによって、あなたが理想のバスケ選手へと近づき、人生そのものを充実感あふれるものにしていくことが僕の望みです。

 

私の理念

Vision(未来):「日本バスケのトレーニングの在り方を変える」

mission(使命):「バスケプレーヤーのパフォーマンスを最大化する」

Value(指針):「信頼関係」「感謝」「step by step」

過去、バスケプレーヤーとして、そして怪我や身体パフォーマンスの弱さで苦しんだからこそ、選手に対しては寄り添う姿勢を持って活動しています。

 

時には選手に対して厳しいと感じる教育などすることもありますが、全てあなたがバスケプレーヤーとして、一人の人間として強くあって欲しいため、僕は選手と全力で向き合うことを信念としています。

 

バスケトレーナーりょーすけの指導/サポートを受けたお客様の声

 

最後に

僕は小中高ずっとバスケ漬けで、大学ではプレイヤーとしてバスケは引退したものの、今はバスケ専門トレーナーという形でバスケに関わっています。

 

僕はバスケがあったからこそ、今の自分がいると言っても過言ではありません。

 

そのため、バスケという存在には本当に感謝しかないです。

 

これを読んでいるあなたも、バスケが大好きで、バスケがあるから今の人生が豊かになっていることでしょう。

 

僕はバスケトレーナーという形で、1人でも多くの選手の身体悩みを解決・パフォーマンスを上げるサポートをすることで、多くのプレーヤーの人生を充実させる活動をしてまいります。

 

サポートに興味にある選手は、下記公式LINEのチャットメッセージにて「サポート詳細」と入力ください。

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2023年11月8日

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